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Tsutsuba Taizan Photo Instruction +
※編集でも加工でも何でもできるデジタル画像の時代だからこそ、写真というものについて深く知る必要がある。
写真の力とは…
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[ 色覚障害 ] #001
▼皆さんは味覚障害という言葉を一度くらいは耳にしたことがあるのではないでしょうか。甘い、辛いが分からない。料理の味がいつも薄いと感じる。など、いずれも味覚障害の典型的な症状だと言われています。味覚障害者を生み出した原因の一つがバブル経済と同時にはじまった激辛ブームでした。
▼辛味の強いものを摂り過ぎると味を感じる舌の粘膜にある味蕾(みらい)が破壊されて、一層辛いものでないと美味しく味わえないようになります。どんどんエスカレートして、しまいには命に関わる状態にさえ対応できなくなるそうですよ。さらに怖いのは一度破壊された味蕾は元に戻らないということです…。
▼突然ですが、あなたはもしかしたら色覚障害者になってはいませんか?日常的に彩度の高い、コントラストの高いテレビやパソコンの画面を目にしてはいませんか?気づかない間にあなたは味覚障害ならぬ『色覚障害』に陥っているかもしれませんよ。派手派手の色、ギンギンのコントラスト、ドギツイまでのシャープな画像でないと何だか物足りずキレイに見えない立体的に見えないなんて感じになってはいませんか?そもそもそのこと自体に気づけないでいるかもしれませんね。
▼写真をやる人は光や色のトーンに対してもっと敏感でなければなりません。繊細でなければなりません。小豆色や鴇色(ときいろ)、翡翠色(ひすいいろ)など和色の柔らかいトーンを心地よく楽しめる感性、料理人ならば昆布ダシと鰹ダシ、煮干しダシの違いを楽しめる豊かな感性が必要なのです。この辺で一度見直してみませんか、巷に溢れる妙~に鮮明でよくよく見れば不自然なくらいにキ・レ・イな画像の数々を…。
[ 見る側の問題 ] #002
▼写真はその誕生以来どちらかといえば撮影する側にたって論じられてきたと言えるのではないだろうか。いかに撮るべきかを論じ、何を撮るべきかを論じ、結果として写真はどうあるべきかを論じてきたのではないだろうか。
▼しかし、立ち位置を鑑賞者のあるいは観賞者の側に変えてみたらどうであろうか。撮影者が何をどう撮りたかったのかということ自体は、見る側にどれほどの意味があるというのであろうか。魅力的な画像を作り出す撮影法に関心のある者達を除けば一般的に見る側は常に写っているものを単純に見てとる。時に観たり診たりはするもののそれ以上の関心は持たないのではないだろうか。
▼また写真は長く撮る側の要求によってその発展を遂げてきたといえよう。カメラもレンズもフィルムもデジタル化された今日の画像も、すべては撮る側、作る側の要求に応える形で発展してきたといえるのである。
▼しかし、気がつけばどうであろう。写真はいつの間にか単なる小綺麗な画像であることだけに収束してきているのではないだろうか。そこには雰囲気も独特な季節感も言うに言われぬ妙味も何一つない只々視覚中枢を刺激し興味をそそるだけのある意味、単純明快な画像の存在だけになってはいないだろうか。
▼下の画像を見ていただきたい。車窓からの風景としてスマホで撮られた画像である。Aは一般的に写真の世界で重宝される画像に編集されたものであり、Bは撮りっぱなしのままの画像である。自然の中で暮らす私からすると時節を語る空気感や空間の広がりなど、全体を通して優れているのはBの画像の方である。言葉にできない微妙な何かをしっかりと捉えて伝えられるところが写真のまさに「すごさ」なのであるが、そのことに気づけない写真家達がなんと増えたことか。
▼写真はそろそろ撮る側の立場から見る側の立場に立って論じらるものへと進化しなければならない段階に入ってきているのではないか、つまり写真とは本来、見る側にこそそのすべてが託されているものなのではないかと思う今日この頃である。
画像A | 画像B |
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[ 見る側の問題 その2] #003
▼その時々を克明に記録できる写真は、魅力的な大衆文化というよりもどちらかといえば商業主義とともに歩んできたという経緯があります。したがってコマーシャリズムに乗っかるように写真は常にプロの写真家によって目的的に撮られるものであったともいえますね。そんな中でアマチュアが写すプライベートな写真にはどことなく華やかさがありました。目的的に撮られるプロの写真に巧さがあるように、アマチュアの写真には自由奔放な輝きというか大衆文化としての華やかさがありましたね。そしてこの華やかさこそがまさに前衛の象徴であったともいえます。
▼仕事がら不特定多数のアマチュアの写真を見る機会が多いことはとても有難いことなのですが、近頃ではうんざりする写真に出会う機会も多くなってきました。その最たるものがコンテストの出品作品にみられる写真まがいのおかしな写真です。作品である以上、内容に自分の思いを込めたくなるのは当然のことでしょうが、写真であるということを逸脱したものがあまりにも多くなってきたということでしょうか。写真の良さや写真のなんたるかを理解することなく、まるで画家のようにジークレー作家よろしく思いの丈を只々画面にぶつけていく。これでもかこれでもかといった勘違いも甚だしい力みを感じさせるものが多過ぎますね。
▼今回は写真家アーロン・シスキンドの名作、海藻no.26を紹介します。これは海岸に打ち上げられた海藻が波に少しさらわれて偶然にも整った楕円形をなした状態を写したものですが、この写真からはこれ見よがしな制作意図や力みなどは全く感じられません。何だこれ?と思われる方もおられるとは思いますが、この写真の凄いところは、何かを表現しようとするのではなく、現実をそのまま受け入れることで逆に被写体自体に何かを語らせようとしているところなんですね。見る側はそれを丹念に読みといていく…。この写真は、見る側にどう見るかが託されているつまりは見る側の見識が問われている写真なんですね。お分かり頂けますでしょうか?
▼写真とは現実を写すものです。撮影者の意図する現実もしくはそれに近い現実が目の前に展開していようがいまいが、その現実にとって撮影者の意図など一切関係のないものなんですね。なのになぜか意図する方向へと強引に現実を引っぱっていこうとしゃかりきに技巧や表現に走るんですよ、ぞくに写真が上手いといわれる人の多くは…。
▼撮影者が何を見つめていたのか、その結果が写真です。私達はその写真を見ることで、現実というものの不思議を目の当たりにしながら、その現実に目を注いだ写真家の心の中へと入っていくことができるんですね。写真とは本来そういうものです。だからこそそこに奥深いものを見出したりすると「こりゃ~すごい、凄い写真家だ」と感心してしまうわけですね。本質的に写真は写っている内容を楽しむという美術工芸品としての性格よりも、その内容を通して写した人の心の中を読む、時代を読む、文化を読む、という段階的思考感覚でどんどん中に深く入り込んでいける非常に芸術性の高いものなんですね。そう思って見ると最近のコンテスト写真はあまりに幼稚というか低質というか、つまらないというか…。とにかく撮影者の考えが画面いっぱいに展開されていて、な~んだただ綺麗なだけ、これだけかよ~というような浅薄なものばかりが目立ちます。淡白な心の中が丸見えで、そこから奥に深く入り込もうとする意欲をかきたてないものがあまりにも多過ぎますね。
▼アマチュアの方々には、コンテストの結果や他人の評価を恐れず、まやかしにすぎない技巧になど走らず、もっともっと素直に心惹かれるものにストレートにレンズを向けていって欲しいと思います。そうして撮られる一枚一枚の写真は、実は写真を写真として純粋に見ようとする人たちには、とても興味深くそして長く付き合うことのできる深みのある本物の写真なのですから…。その辺にいくらでもいるへなちょこプロの真似なんかしていい気になっていないで、自分も次代の写真を担うアマチュア写真家の一人なのだという認識のもとにもっともっとプライドを持って撮影に臨んでほしいものです…。
Seaweed 26 1953 Aaron Siskind (1903-1991)
Seaweed 26 1953 Aaron Siskind (1903-1991)
[ コンテスト ] #004
▼日報カルチャースクールのメイワサンピア教室が開講したのは2011年の4月である。以来、月に2度自宅からこの教室に通うことになった。お陰様で現在講座は3教室に増え、月に4度この地を訪れている。旧栃尾市から見附市経由で三条市に入り、そこからは国道289号線で吉田町に入る。国道116号線から県道296号線、同2号線を経由し新潟市西区の赤塚地内を目指す。途中車窓からは四季折々に風情を変える弥彦山と角田山が見えるのであるが…。
▼さて何をお話ししたいのかというと、時とともに変わってゆく人の意識というものについてである。子供の頃から毎朝守門山だけを仰ぎ見て育った私でも弥彦山くらいはその山容をよく知っている。馴染みがなかったのは角田山の方である。角田山といえば標高僅か481.7メートル。子供からお年寄りまで比較的容易に登れる山として地元の人はもとより大勢ファンはいるのであるが、山の中(笑)で育ったせいか「登山」というものにはからっきし興味のない私にとって、この角田山は遥かに遠い存在であったといえよう。詰まるところまったくといってもよいくらい関心のない山だったのである。
▼しかしながら、昨年の春くらいからであろうか、5年も6年も見続けたせいか、少しづつこの山の移ろいに興味が湧くようになってきたから不思議というより他はない。こうなるとこの山への関心は一気に高まる。富士山のように取り立てて褒め称えるような稜線をしているわけでもないのに何かしら愛着に似たものが心の中に芽生え始めてくる。そういう自分の意識の変化に驚かされるのである。「美人は三日で飽きるが、ブスは三日で慣れる。」誰がいったか定かではないが、うまいところをついている。要するに長く付き合っていれば見て呉れは次第にどうでもよくなる。大事なのは人間としての内的魅力であるということなのだ。
▼つまりは慣れであろう。ものの良さが感じとれる最大の要因は、慣れによって対象への興味や親しみが湧き、それまでの無関心な意識が明らかに変わってゆくということにある。ものの本当の良さなどというものは、ぱっと見で分かるものではない。慣れ親しんだものだからこそ分かり得るのである。初対面で分かるのはせいぜいで外観や見て呉れだけの良し悪しである。
▼やっと前置きを綴り終わった。さて本題に入ろう。最近の写真コンテストの体たらくぶりときたらひどいものだね。ありゃ一体何だい。評価されてる写真は、古典的な優等生か然もなくばケバい新参者ばかりじゃないか…。まったく審査員の目はどいつもこいつも節穴かと思いたくなるくらいに良いものは選ばれていない。本当に良い写真というのは、決して特別ではない見慣れたシチュエーションを捉えたものでありながら、写っている対象に対して今までにはなかった新鮮な切り口から新たな価値観を見出せる何かを捉えた画像である。慣れ親しんでいるとはいえ誰からも文句を言われないような無難域に入る画像や、見て呉れだけがやたらと目立つが実は中身のない分を色を盛ることでそれっぽく仕上げた奇抜な画像などでは決してない。
▼写真が本当に上手くなりたかったら先ずはコンテストに挑戦しなきゃダメだ。どれを出そうか色々と悩んだり様々に考えを巡らすことがテクニックの向上とものの見方や捉え方につながり、写真に対する総合的な力がついてゆくからだ。ただし一度や二度コンテストに受かったからといっていいきになるな。落ちたからといってクヨクヨするなと強く言いたい。最近の審査員の目は案外節穴なのだよ。ここ10年間、コンテストで選ばれている画像への評価なんて、これから5年後10年後、遅くとも四半世紀後までには加速度的に崩壊し続け、その評価が一変することはまず間違いない。全国規模のコンテストだからといって、有名なコンテストだからといって、中央から来た審査員が審査するからといってそれがなんだ。そんな形骸化してしまったステータスに誤魔化されちゃいけない。コンテストに出すからにはしっかり“写真”というものを勉強し、反対に審査員の眼力を審査してやるぞくらいの気概をもって臨んでほしいものである。特にベテランやハイアマチュアの方々には敬意をもってお願いをする次第である。
▼ん~、一言助言というよりも苦言って感じの内容になってしまった。誠に失礼ながら今回は広く写真コンテストの審査員に向けての忠告を兼ねている。オイオイ、お前何様のつもりだよといった非難はすべて甘んじて受ける覚悟ですので悪しからず。
[ あたりまえの事実 ] #005
▼「下手に名の通った先生を連れてくるよりも地元の愛好家を十数名選んで審査員になってもらった方がよっぽどまともな審査をやってくれるよ…。」
▼これは私が写真家を名のりはじめたころに地元ローカル紙の新聞社を街の名士でもあった粋なオヤジさんから受け継いでバンバン発展させていた若き二代目社長と街で一杯やったときに彼に向かって放った真剣な戯れ言である。
▼現在新潟市の市展では、写真部門の審査はそれなりに実績のある地元のアマチュア写真家に委ねられている。かつての私の教え子たちも審査員として何人か審査を担当しているがつまりは四半世紀を経て私の提言に近づいている訳であり、これは痛快と言うしかない。
▼当時、闇雲にいい加減な事を言った訳ではない。私なりに一つの考えがあったからだ。三人寄れば文殊の知恵ではないが一定数を集めれば愛好家の方が写真家を名のるプロの先生たちよりも公平かつ的確な審査ができると思っていたからである。
▼毎年行われる審査結果に寡黙に取り組んでゆくしか術を知らないアマチュアの方が写真の良し悪しを判断する努力を重ねている。手馴れた作業よろしく無難ファーストで、もしくは個性という名の偏見を武器に乗り込んでくるプロとは審査への意気込みも質も随分と違ってくるはずである。もっともたま~にではあるが優れた審査員が来ることもあるけど…。
▼そもそもシャッターチャンスよろしく特殊な現実を捉えた画像や技巧的に優れた画像などに対してお決まりの評価を下す程度のことであれば、わざわざ写真の先生と呼ばれる人をありがたげにお呼びして格付けまがいの体裁を整える必要などどこにもないだろに…。
地元の重鎮でそれなりの実績を備えた愛好家で十二分である。
▼特別な現実に対して価値を認めるよりも、あたりまえの事実に対して新たな価値を見出すことの方がはるかに難しい。比べてみればどちらが良いかなど素人でもわかる見栄え比べの審査ではなく、何が良いのか素人目にはまったくわからないような写真に対してひとつひとつその良さを説き、形骸化してしまいがちな写真コンクールに一石を投じてくれるような審査。卓越した審美眼と博学とを備え、進歩的な思想に満ちた先生だからこそお金を払ってでもお迎えして審査をお願いしてみようということになるではないのかねぇ諸君。
▼今年は縁あって知人に誘われ十数年ぶりに市展を巡ってしまったが、地元の重鎮にお願いした方が出品者も来場者も納得できる良い結果が出ただろうにと思えるようなマンネリ審査結果と的外れな解説が目立った。何やらきな臭いニオイもしていて…地元の有力な写真クラブのメンバー達とズブズブの関係になっている常連の審査員もいるとかで…(笑笑笑)
▼前衛と言われる写真の世界はその進展をアマチュアリズムが担ってきたのである。ネット社会の広がりにともないようやく写真は気鋭のアマチュアたちが台頭し始めてきた。ふんぞり帰った二流・三流の先生たちを押しのけてその内容や評価を変えてゆく時代はすぐそこまで来ていると感じる。私が応援します。あとひと頑張りだ!
[ フリーランス ] #006
■一定の会社や組織に属さないで活動を行う作家や俳優などをフリーランサーあるいは俗にフリーランスという。なんとも聞こえのいい肩書きである。さしたるステイタスを持たないアマチュアにとっては「うん、僕はフリーランスだから…」などと格好をつけるのに最適である(笑)
■私がこの言葉に出会ったのは新潟の伊勢丹デパートで初の個展を準備していた1988年12月であっったと記憶している。無名の新米作家にはプロフィールに書き込む事項をつむぎ出すのも一苦労であるがそんな折り、付き合いのあった画材屋さんが筒場さんのような人をフリーランスって言うんだよねって教えてくれた。以来、◯◯会会員とか△△会所属などと言う形だけのステイタスなど持たずに実力で勝負していこうと決めていた私にとってはとても重宝する肩書きとなった。
■昭和を代表する日本の写真家の一人であり白鳥の写真で有名な羽賀康夫氏との親睦的な出会いや、はざ木の写真を手はじめに当時新潟の風土を叙情豊かに歌い上げていた弓納持福夫氏との辛辣な出会いがあったその個展が無事終わりしばらくすると、県の写真家協会の方からお誘いが掛かった。なんとも誉れ高いことではないか。普通であれば即入会となるところであろうが気骨者の私はその誘いに応えなかった。以来三度お誘いをいただき三度目の時には、これ以上断ってはさすがに失礼にあたると「三顧の礼」に習い入会することとしたのであるが、実は当時身の処し方を相談した小林新一前新潟県写真家協会会長から、あんなもの筒場さんがわざわざ入ることなんかないよ~っと言われてしまって実に困ったというか、え?やっぱりその程度の会なの?と驚いてしまった…(笑)
■その頃はまだ自分の写真を額に入れて作品として買ってもらうなどという事を実際に行っていた写真家は全国でも数えるほどしかおらず勿論新潟県では私が唯一最初の人であった。いまもこうしてやっていられるのは、その頃まだ元気だった写真評論家の重森先生が「君の写真は売れるだろう」と言ってくれた事や羽賀氏が「筒場君は僕らなんかよりずっと写真家らしい写真家だよ」との言葉があったからだ。商業写真に頼らない写真家稼業はいま考えると暴挙に近いものであり路頭に迷わずよくやれてきたものだと幾人かの方々にはお礼の言葉もない。然し乍らそうやって一年、そしてまた一年、と乗り越えてきた歳月がとてつもなく大きな自負としていまの自分にはある。
■プロを排しアマチュアを応援してやまない私の考えの根幹は、自ら決めて歩んできた作家としての在野としての在り方生き方に信念を抱いているからであり、アマチュアといえども本当の実力を持った写真家を目指してもらいたいからである。◯◯会会員などという聞こえだけは有り難いが、実は年会費を払えば収支は赤字でもつまりは誰でも持てるような肩書きを振り回さずとも地に足のついた活動はできるものである。そもそも二流三流のプロよりも一流のアマチュアの方が遥かに凄味がある。
■そういえば県の写真家協会も当時とは随分とメンバーが変わってしまったようだ。会員数も3分1以下に減ったが内訳はなんとフリーランスが半分を占めている。え?新潟県写真家協会々員という立派な肩書きがあるのにフリーランスなんですか?…はてさて実態というか実力の程は如何に…。
[ 写真像の特殊性 ] #007
■フォトグラフ(Photograph) は直訳すれば光によって描かれた図形という意味です。つまり一般的にはカメラと言われる機械を使って光学的に写しとることで得られる画像であるということなんですね。彫刻や絵画や工芸品のように作り手が手間をかけて一から創りだしていくようなものでは決してないということなんですよ。そして対象を写しとるというその特質を生かして昔から写真は精緻な描写が得れる記録媒体として重宝されてきたという訳です。
■記録、記録、記録。その記録写真の大御所といえばやはりアッジェでしょう。フランスの写真家ユージェンヌ・アッジェ(1857~1927)は、約30年もの歳月をかけてパリのすべてを記録しながら生涯貧困生活からは抜け出せなかった偉大なる写真家なんですね。あらゆる階層の人々、街を走る乗り物や古い店先や看板、パリを囲む城壁跡から人々の暮らしにはじまる普段着の生活まで、とにかく思いつく日常のありとあらゆるモノを丹念に丹精に坦々と写していったんですね。
■彼の死後、残された膨大な写真群は、必然ともいえる偶然の出会いがもたらした一つの幸運をきっかけにあまりにも大きな評価を得ることになります。それは単なる資料的価値を超えた真の意味での「写真芸術」という言葉が生みだされるきっかけとなる至極の評価だったんですね。
■写真を専門に学んだ人であれば誰もが知っているこの当たり前の事実を、いまやネットで検索すれば誰でも簡単に知り得るこの驚くべき事実を、記録としてのみ写真は唯一本来の価値を得れるというこの当然すぎるはずの事実を、今の人達は軽んじていないかね。蔑ろにしてはいないだろうか。目の前にあるモノがオブジェとして醸し出す不思議な世界なんて知ろうともしない能天気な写真家が多すぎはしないかってもはや私は憂いを通り越して諦めかけている状態なわけです。
■写真とは光学的かつ物理学的かつ機械的に作り出される単なる画像であり、人が意思をもってカメラを操るとはいっても、だからといってその画像は撮影者によって創作されるものなんかでは決してないんです。だからこそレンズを向けた日常の一コマには写真像だけが持つ現実味、リアリティーが如実に表れてくるんですよ。じ~っと見ているうちに写真って凄いなぁ、いいもんだな~って心の底から自然と思えてくる良さがあるんですね。
■ところで皆さんは絵画の世界にスーパーリアリズムといわれるジャンルがあることをご存知でしょうか?知らない方はネットで検索してみてください。そこには、まったく写真のようにリアルに描かれた不思議な絵の世界があります。でもその絵からは描かれている事物の存在感というか実在感というか、要は真のリアリティーというものを見てとることができないんですね、何故かは掴めませんが…。
■でも写真の場合は反対にどんなにいい加減に撮影されたものだとしても、現実味が感じられないということはないのです。写し撮られたモノの形が判別できないほど損なわれていない限りはその実在感がリアリティーが感じられないということはないんですね。写真像の場合は白黒写真で昔よく使われた粒子をかなり粗めに表現する手法のように、その精緻な描写を改変しながら削ぎ落としていったとしても、やはり写し撮られたモノの形が損なわれない限りはその実在感が失われるということはないのです。
■写真像に宿るリアリティーというか現実味は全くもって特殊で特異で特別なものです。この事実は、細密描写と現実味とがイコールでは結ばれていないということなのです。デジタルカメラでいえば画素数の多さとリアリティーの存在というか現実味とは直接繋がっているわけではないということなんですね。これってとても重要で凄い発見だとは思いませんか。私だけかなぁ???(リアリティーの有無は人間が描いたものかカメラで写したものかという意識の違いから生ずるものだという方がおられますが少し違います→写真考察第3章ー絵画としての写真参照。)
■Photoshopなどの編集ソフトを使って写真にレタッチを施す上で気をつけなければならない点がまさにこれ。現実味を失わないように加工するということですね。あくまでも写真像であるということを軽んじてはいけません。現像ソフトだか何だか知りませんが、無知というかいい加減なテクニックをチャラチャラとさらけ出すような、写真であるということにアグラをかいた挙句の果てに滑稽で非現実なトーンを平気で創り出すレタッチをやってしまうことのないよう重々注意することです。
■それにしてもあちらこちらの写真コンテストでありえないトーン作品に対して高い評価を下しているヘボな審査員が数多くいる現状にはまったく困ったものだと心の底から憂いています。キッチュなというかフェイクなというか、モキュメンタリー調のおかしな写真作品が多すぎますね。とにかくこうなっちゃぁもう写真の世界ではないですから…あえていえば新たにモキュメンタリー部門なるものでも作ってそこに出展させるべき類のある意味新しい作品ですね。と強く思う今日この頃です。
※モキュメンタリー
mockumentary〔mock は「まがい物」などの意〕
架空の事実を取り扱いながら,ドキュメンタリーの手法を用いることで「さも事実であるかのように」表現する映像作品。
ヘッディング 1
[ 埋没する個性 ] #008
■少し前の話になるが、新潟県立歴史博物館で開催された“村の肖像”という写真展について今回は語りたいと思う。
■内容は、新聞・書籍・動画・写真・音源など現存する膨大な量の文化資源をデジタルデータ化して保存統括管理をし、様々な目的に即時対応していける基盤作りを目指して新潟県立図書館郷土新聞画像データベースと新潟大学にいがた地域映像アーカイブ・データベースを統合した「にいがたMALUM連携地域データベース」の中から、新潟県魚沼地方を中心に、大正から昭和中期にかけて撮影されたドキュメンタリーでしっかりと分類構成されたもので、中山間地といわれる地域で当時生活をしていた人々の暮らしぶりとその時代の地方文化を一部動画をとりいれながら大小数百点のプリントで肉厚に紹介するという大規模かつ非常に有意義なものであった。また、文化庁をまきこみ写真集ばりの図録を来場者が無料で手にできる主催者側の配慮には、この写真展に寄せる思いの大きさを推察するに充分すぎるものがあった。
■1月19日から3月21日という開催期間は、会場となった歴史博物館が毎年かなりの積雪を記録することで知られる長岡市内の外れにあることを考えると如何したものかという気はしたものの、暖冬少雪にも助けられそこそこの入りだったようである。
■期間中私はプライベートで2回、クラブのメンバーを誘って1回の計3回足を運んだのだが、そのうちの一回は関連イベントとして行われるトークショーを拝聴するのが目的であった。
■いまは亡き写真評論界の重鎮にして深遠な批評家でもあった重森弘淹氏らが中核となって開設し、現在の日本の写真界を担っている主要メンバーの母校ともいえる写真専門学校出の土田ヒロミ氏を筆頭に、国内外で活躍する日本人の写真家にスポットを当てて評論活動を続ける飯沢耕太郎氏、頼まれれば美術家の立場から写真批評もこなす大倉 宏氏の3名に、今回の催しのチームリーダー的存在であり社会学が専門の原田健一新潟大学教授を加えた4名という、予想できかねるとは思うがややもすればかなりの激論が交わされそうなヤバいメンバー構成であることに私は実のところ興味津々だったのである。
■よく言えばまことに大人の座談会であった。正味一時間足らずの出来レースばりの意見交換会?には当方完全な消化不良を起こしてしまったのだが、唯一興味深かったのは、大倉氏が提起した「写真は古くなれば撮影者が誰々であるということを誇示することは、それ自体あまり意味をなさないことになるのではないか、つまり誰によって撮られた写真なのかという個性の問題は時間が経てばどうでもよくなる」というような結論に意見が集約されていった一節であった。
■あくまで写真は事実というものをレンズを通して映し出し画像として定着させたものである。つまり絵画のように白紙の上に意識の作用が加わった画像が生成されていくような純度の高い表現物などとはまったく違う機械的で超写生的なものなのである。写真における表現の世界とは、撮影者がイメージの形象化を試みるときに、被写体とカメラに頼りながら他力本願的に手にすることのできる軽便な世界に過ぎない。またそれゆえに表現物としてのオリジナリティーを構築し難いものでもある。というのが私の持論であり、座談会の内容は図らずしもそのことを裏打ちしてくれるような心地よさを感じたのであった。
■事実我々は古い写真を手にするとき、原田氏が言うように「それはかつてあった」ということを確信させてくれる信頼性の高い記録物として扱っているのであり、表現としてあらわれているかもしれない撮影者の個性や意図などには何一つ関心を向けようとはしていない。会場を回りながらそういう自分がいることに少なからず驚かされるのであった。
■私はいまデスクの上に二冊の写真集を置いてこの原稿を書いている。一つは1988年にアメリカで開催された国際的な写真フェスティバルに日本から出展された内容を東京のコニカ・プラザで帰国開催するにあたり重森弘淹氏が代表となり「日本の藝術写真 1920年ー1940年」と題して編集されたものであり、もう一つはコダックフォトサロンで毎年開催される全ての写真展の代表的な作品を年毎に収録した写真集の1989年版である。
■いずれにもその時代を代表する作品が載ってはいるものの、二冊の内容になぜか半世紀あるいはそれ以上の時の流れというか時代の隔たりというものを見てとることはできない。それどころか明らかに似ているとさへ感じてしまうものも一つや二つではない。これは一体どうしたことか?。
■これは偏に写真というものが対象物を写し撮るもの以外の何物でもないということを物語ってはいまいか。思うに撮影段階における表現域の狭さと創作者としての脆弱なオリジナリティーの露呈なのであろう。ページをめくるたびにそこに何が写っているのかをしげしげと見ることはあっても、いかなる意図で撮られたものかを撮影者の意図として探り出そうとする衝動などは、例えば評論家として故意に意識でもしなければ残念ながら自然とは湧いてはこない。端的に言ってしまえば、我々は過去に撮られた写真に対して記録物としての価値以外の何物も求めてなどいないのである。
■写真は論ずる立場からすれば記録と表現の狭間で都合よく語り謳いそして学術的に問い続けてきた歴史がある。しかし画像自体の質に着目すれば結論に辿り着つくことはそう難しいことではない。前述の内容から容易に理解ができよう。つまりいかなる写真であっても記録物としての度合いが表現物としての度合いを遥かに凌いでいるという事実、写真の本質たるその絶対的事実の存在こそが尊いのである。
■写真の記録性を前に表現物として個性を主張することの何と無意味なことか。作者の個性は蓄積される時間の中に“古びゆくイメージ”として静かに埋没していく運命にあるのである。そしてそれとは対照的に記録物としての輝きは時間の経過とともに歴然と浮かび上がってくることになる。