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※編集でも加工でも何でもできるデジタル画像の時代だからこそ、写真というものについて深く知る必要がある。
写真の力とは…
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写真考察 著者:筒場 太山
2012.08.12 TAIZAN会発行の書籍の原稿部分のうち著者選択部分を本ホームページに掲載。写真部分は不掲載です。図表は一部を巻末に掲載しました。
文中の*印を付した用語は、筆者が論理展開上使用しているものであり、その解釈と併せて一般に使用されているものではありません。
目次
第1章 写真の作品性
1 作品と模写
「作品」は能動的に撮る
題名は作品性を問う要素
2 白黒とカラー
カラー写真の場合
白黒写真の場合
情報量の違い
第2章 写真のリアリティー
1 リアリティー
「迫真性」と「実在性」
盲目的な信頼
客観的リアリティー(客観的妥当性)
マチエール(材質感)
写真のリアリティー3要素
第3章 写真と絵画
1 現実とのギャップ
もう一つの現実
絵画としての写真
現実の記録
2 私的写真*
私的写真*の表現性
私的写真*の記録性
絵的写真*と写真画*の違い
第4章 記録写真、その未来
1 記録写真
新しい価値観に迫る
2 アマチュアリズムへの期待
第5章 写真考察
1 デジタルカメラの台頭
2 写真の定義(写真と作品)
ありのまま
肉眼との違い
写真作品とは
第6章 段階
1 能動的流れ
Level 1『純写真*』
Level 2『演出的写真*・写真術作品*・写真作品*』
Level 3『演出写真*・写像絵画*』
2 受動的流れ
写真力*への目覚め
絶対写真*(Absolute Photograph*)
第7章 フォトコンテストの限界
1 デジタル時代への対応
虚と実の境界線
揺らぐ大前提
記録写真の行方
新たな基準の設定
解決すべき矛盾
2 分類・提案
図表1
図表2
本文
第1章 写真の作品性
1 作品と模写
写真は、被写体をカメラで複写的にとらえます。従ってレンズが向けられた内容は、それなりが記録されてしまいます。この機械的に処理される創作過程は、他の表現物と決定的に違う点です。しかし、写真の「作品性」を考える場合、この複写的な記録性に委ねられた映像内容のみでとらえようとすると大きな無理が生じてくるように思えます。つまり、「写真は記録である」とする立場からのみ作品観を擁立してゆく考え方や、作品と模写の一般的な解釈には、様々な問題があると私は考えます。
「作品」は能動的に撮る
私は、対象となったものそのものへの依存性が強く根幹をなす場合は「模写」なのであり、私的な感情が内容に反映されている場合が「作品」なのではないかと考えます。したがって、事物を複写的に記録する写真が「作品」であるためには、撮影者自身の対象に対する感情が内容として表示される必要があると思います。少なくとも対象との出会いによって撮らされた写真ではなく、対象との対話により能動的に撮った写真でなくてはならないということです。ここでいう「能動的に撮る」とは、対象に起因する能動的な自発行為をさすのではなく、対象への主観的な解釈を表現するという意味です。両者の違いは意図的に次のように換言するとわかりやすいと思います。一つは「この写像は私の創作物です」というケース、もう一つは「この写真は対象に心を動かされて撮りました」というケース。前者は「作品」であり、後者は撮影者が受け入れた現実の「模写」となります。
題名は作品性を問う要素
また写真は、内容そのものが題名となっている場合が圧倒的に多いようです。対象を客観的にとらえる記録写真とは、もともと現実の客観的内容を表示し、対象そのものの魅力を表出しようとする写真ですから、題名が内容そのものを語ることは至極当然のことといえるでしょう。付された題名が、まさに内容そのものを語っているものであるならば、その写真は、間違いなく記録写真であり、「模写」ということになります。しかし、題名と写真の客観的内容との間に、ある種意図的とも思える違いが認められるならば、これは、被写体に向けられた撮影者の私的な意思表示と言えます。つまり、撮影者は、対象を単なる記録の一対象としてではなく、自己の意識を投影させる被写体としてとらえようとしていた、ということになります(主観的意識の表出)。客観的内容を表示する写真では、被写体に向けられる撮影者の思いは、その題名からしか探りだすことはできないはずです。したがって題名の内容が「作品性」を問う一つの重要な要素になります。撮影者が私的な感情を被写体に反映させようとしている写真を、一記録写真として包括してしまう感覚は、私的な「作品性」を闇に葬ってしまうものといえるでしょう。
尚、撮影者の意思表示である題名よりも、対象そのものが有する現実的魅力の方が大きく先行している場合は、「模写」(記録写真)とする方が適切でしょう。
2 白黒とカラー
写真の「作品性」を問うときに、見落してはならない観点がもう一つあります。それは、白黒写真とカラー写真の膨大な情報量の差に起因する内容の伝わり方の違いです。
カラー写真の場合
例えばここに、花瓶に生けられた一本の赤いバラがあるとします。そしてそれを美しいと感じた人がカラー写真で撮ったとします。すると写真には、赤いバラの花が記録されます。プリントしたものを他の誰かに見せたとしましょう。その写真を見た人は、果たしてそれをどのように観賞するでしょうか。まず、花瓶に生けられた一本の赤いバラを即時客観的に感受することでしょう。しかし問題はその後です。写真を見た人は、プリントに表示された花の色をどのように受け止めるのでしょうか。
一口に「赤」といっても、実際には微妙に異なる無数の赤が存在しますから、人によっては、美しいとは思い難い赤であるかもしれません。するとこの場合、撮影者が美しいと感じた思いと、それを見た人との間には、意識的なズレが生ずることになります。仮に題名が「赤いバラ」とでもなっていたなら、撮影者とそれを見た人との意識的なズレは、色からくるイメージの違いによって、かなり大きなものとなることが予想されます。場合によってはこの花に寄せた撮影者の思いは、ことごとく否定されかねません。
白黒写真の場合
では白黒写真で写したらどうなるでしょう。この場合は、花瓶に生けられた一本のバラという客観的事実のみが、情報としてグレー階調で表現されることになります。仮に題名が「赤いバラ」とでもなっていたなら、その写真を見る人は、自分のイメージできる赤を無理なく想定すること(意識下に置くこと)が可能になります。この時点で、見る人の意識が「赤」という色に対して否定的に作用することはないはずです。場合によっては、撮影者の意識になかった意識までをも過分にくみとり、生けられた花全体の雰囲気、あるいはその人にとって都合のよい赤い色との組み合わせによって生まれる詩情感(私情)を勝手に味わい、撮影者がまったく意識しなかった被写体の本質にまで迫ろうと、深く見入ってしまうかもしれません。極端な言い回しですが、このようになる可能性は充分にあるといえます。
情報量の違い
同じものを写していながら、白黒とカラーでは、第三者に対する伝達作用に明らかな違いが生じてきます。この違いは、すべて情報の量にあります。そもそも情報とは、ある物事の内容や事情を知らせるために存在するものですが、カラー写真に比べて白黒写真は、色が確定されない分だけ情報が少ないといえます。このことは、勝手に想定できる部分(余白)が多く残されているということに他なりません。絵画に比べて写真がどうしても「模写」されたものにみえてしまう原因は、確定的な情報が多すぎる点にあります。写真(特にカラー写真)は記録性に優れていて、「模写」には適しますが本質的に作品鑑賞に欠かせない想像する楽しみをあまり提供してはくれないものと言えるのかもしれません。白黒写真はカラー写真に比べると、情報提供物としての記録性は弱く、よってより「作品的」になる(白黒への転換表現をもって作品とすることも可能)ということができると思います。写真の作品性を問うときには、この点にも留意しなければならないでしょう。
第2章 写真のリアリティー
1 リアリティー
リアリティー(reality)とは、真実・現実・実在という意味です。つまり、リアリティーには、それが本物である、真実であるといった「迫真性」の意味あいと、同義的に発生する、作りものではなく実際に存在するものであるといった「実在性」の意味あいの両方があることになります。
「迫真性」と「実在性」
例えばここに、小さな皿の上にのせた一個の卵の写真があるとしましょう。すると我々は、それが本物の卵であるか否かという「迫真性」と、そういうかたちをした卵と呼ばれる物体が実際に存在するのだとする「実在性」の両方を問うことができます。
写真は、レンズの優れた描写力のおかげで、それが何ものであるかを確定するに足る充分な「迫真性」を本質的に備えているといえます。しかし果たして、「それは作り物ではなく本当にある、あるいは存在するものである」という「実在性」の確たる証明が一枚の写真にできるか否かということについてはどうでしょうか。私には、安易に肯定し得ないことなのではないかと思えるのです。
もう一つ例をあげてみましょう。ここに一枚の戦場を撮った写真があるとします。写っているものは、惨劇というかたちであったり、あるいは死のかたちであったりするかもしれません。しかし、それがフィクションではなく、本当の戦争で実際に起きたことであったかどうかということまでは、本質的にその写真からは確定できません。なぜなら、カメラは、そこにあるものがたとえ何であれ、ただそれを写し撮るということ以外(被写体の記録以外)には、まったく能力をもたされていないからなのです。
盲目的な信頼
写真は、「真実を写し撮ったもの」とする根本的な大前提があるからこそ、それは本当にあったこととして見る側は受けとります。勿論その内容を疑うことを基本的にしないだけです。被写体の「実在性」に関する盲目的な信頼を、絶対的に享受させてきた報道写真の歴史は、まったく賞賛に値する事実といえるでしょう。そしてそれを可能にしてきた理由もまた、レンズのもつリアリティーのなせる技だったといえるのかもしれません。そしてこのことは、同時に、写真は真実を写したものとして平気で噓をつくことさえも可能なのだ、ということを逆説的に語り続けています。かつて巧妙に作られた合成写真の数々や、近年のCG(コンピュータ・グラフィックス)を使った高度な画像処理などは、どれもそのよい例といえるでしょう。
客観的リアリティー(客観的妥当性)
さて、人はなぜ写真に「迫真性」や「実在性」というリアリティーを容認し続けてきたのかということです。確かにレンズの描き出す細密描写は、決定的な要素であったに違いありません。しかしそれ以前に、写っているもののリアリティーを容易に認めさせてきた何かがあります。それこそは、現実に対する人間の一般的な知識と感覚と認識の枠ではなかったのでしょうか。一人の社会人として、写っている内容の迫真性や実在性を信じきれるといった一般的な感覚を満たしてくれるもの、いたずらにその感覚を刺激しないものであったからこそ、我々は写真というものに「リアリティー」という輝かしい栄誉をさずけ続けてきたのではないでしょうか。突然「宇宙人の写真」といわれるものを見せられても、ほとんどの人が驚きながらも眉をひそめてしまうのは、写真のリアリティーを容認しながらも、宇宙人の存在そのものが、現代人の一般的な知識と感覚と認識の枠から、わずかにですが外れてしまうからに違いありません(人によっては大きく)。つまり、写真の内容には、客観的リアリティーが必要だということになります。
マチエール(材質感)
次に、写真のリアリティーを確立させている、もう一つの重要な要素について触れることにします。それは、印画紙そのもののマチエール(材質感)がもたらす威力についてです。
私達がプリントを目にするとき、その限りなく平滑な画面に展開する世界はいかにもリアルです。ある種の透明感を有し、ストレートで生々しく、鏡写しの如く立体的で、大いに感覚を刺激してやみません。カラーであれば空間をそのまま切りとってきたかのように感じることさえよくあります。印画紙は、まさに現実をそのまま写し撮ったものとする複写的な感覚を充分満足させてくれるものです。これは、写真用プリントのみにみられる特徴で、絵画はもとより、版画や印刷物(コーティングされた印刷物は除く)などとも一線を引く特殊なものといえるでしょう。また市販の印画紙には、光沢質のものと半光沢質のものとがあり、さまざまな表面加工を施すことも可能ですが、この威力は、印画紙の平滑性が低下するほど減少するようです。したがって印画紙のマチエールを大きく変化させ、平滑性を極端に消失させてしまうことは、写真の本質を異なる方向へ導くものといえるでしょう。印画紙のマチエールは、写真が写真であるための絶対的要素といっても過言ではありません。
写真のリアリティー3要素
写真のリアリティー。それはまさにレンズが可能にした細密描写と、その内容を真実のものとして受け入れようとする意識の肯定的作用、加えて現実の記録というストレートな感覚を満たしてくれる支持体や印画紙自体の特殊性。この三つの要素が折り重なるようにして構築されてゆく、一つの価値観そのものなのではないでしょうか。
第3章 写真と絵画
1 現実とのギャップ
写真は、あくまでも内容にリアリティー(迫真性と実在性)が存在するか否かを、現実に対する人間の一般的な知識と感覚と認識の枠で、あてはめて考えてみることが大切です。一般的なこれらの枠にあてはめてみるとは、「現実とのギャップ」つまり、客観的な思考見地からみて、感覚的な違和感を生ずるか否かということです。
もう一つの現実
例えば、スタジオで撮影される記念写真は、間違いなく本人であり、実在の人物といえます。にもかかわらず、そこに写っている人物は、普段の本人とはどこか違う、特別な誰かであったりはしないでしょうか。
衣装やポーズ、視線、周囲の状況など、すべては撮る側と撮られる側が意図的に作りあげる、もう一つの現実に他なりません。であるならばこれは、絵画作品と同じように、対象に主観的にかかわろうとする自らの意思によって、私的な選択過程を経るものとは言えないでしょうか(形態は写真だが、内容は絵画作品と同一の構築過程を経るものであり、性質が絵画に準ずる絵的な写真=絵的写真*。趣向的瞬間に固執した叙情的な風景写真等を含む)。
困ったことにレンズのリアリティーは、この特殊な現実さえも肯定的に客観視し、普遍化してしまおうと見る側に迫ってくるから厄介なのです。
絵画としての写真
写真と絵画の根本的な違いは、「内容そのものの実在性の有無」にあります。つまり、写真にあって絵画にはないもの、それは、表示されたものそのものが実際に存在する(或いは、した)ものであるとする、写真ならではのリアリティーといってよいでしょう。絵画が人によって描かれる以上、内容そのもののリアリティーは、明らかに創作されるものであるのに対し、写真はカメラを使って複写的に被写体を写し撮るわけですから、必然的に容認可能なリアリティーが生じてしまうことになります。これは、絵画をいかに細部にこだわって正確に描写し得たとしても、粗く写し撮られた写真の方が、「実在性」というリアリティーにおいて絶対的に勝ってしまうという論理的な解釈のもとに理解できます。
しかし、写真と絵画の違いをリアリティーを表出するその表現手段のみに置き、それを生み出すものがカメラか絵筆かとする短絡的な解釈には、少し問題が残るように思えます。つまり「カメラで撮影したものは写真である」とは必ずしも言い切れないのです。次にその最も端的な事例を紹介します。
かつて絵画の領域を写真で表現してみせた作家達がいました。イギリスのヘンリー・ピーチ・ロビンソン[1830~1901]やスウェーデン生まれのオスカー・ギュスタヴ・レイランダー[1826~1875]です。彼等の手による数々の作品は、当時の芸術的な概念を満たすために、写真で絵画的なモチーフに挑戦することを目的に、演出や合成技術を駆使し、表現のためにわざと現実から離れてしまうものでした。しかしこれらの作品は、作者の意識世界を表現するために作為的に制作した虚構(フィクション)を写真化した表現映像であり、その内容は完全に絵画といえるものです=写像絵画*。一部の秀作を除き、後に写真の魅力が実在性を主とするリアリティーの表出、真実の出来事として伝える力にあることを明確に導き出すための布石となっています。【臨終/1856年H・P・ロビンソン 作。人生の二つの道/1857年、苦境/1860年O・G・レイランダー作】
このように、カメラで撮影されたものであってもその内容が真実のものとして実在する(或いは、した)ものであることを主張し得ない「絵画としての写真」というものが写真の世界には存在します。注1
写真はあくまでも内容に現実的なリアリティー(真実味)を見て取れることが大切なのです。
最後にサロン・ピクチュアの始まりとされる、ヨーロッパを拠点にもてはやされた写真について少し触れておきましょう。これは、19世紀後半にロンドン写真協会の中心的会員達によって起こされた作風で、極度な軟調描写により写真を外観上絵画的な雰囲気に見せるというものだったようです。この種の試みは、印画紙そのもののマチエールを変化させてしまうことにより創作性を演出するというアイディアや、プリントに直接ペインティングを施す印画紙のキャンバス化といった奇抜なものにまで変転し、現在でも一部の愛好家に受け継がれています。しかしこれらは、写真というものに対する解放的な発想にもとづくものといえるでしょう。
現実の記録
前述のごとく、写真がその表現法を、絵画の模倣や支持体のマチエールに委ねようとした時代は確かにありました。しかしその原因は、写真のもつリアリティーという絶大な魅力を表出上どのように解釈し、広く大衆にアピールしてゆけばよいのか分からなかったという点にあったようです。20世紀に入り、アメリカでアルフレッド・スティーグリッツ[1864~1946]が、カメラという器械のもつリアリティー、現実描写力を高々と掲げ、ストレート・フォトグラフィを提唱するやいなや、写真は絵画と領域を異にし、「真実の記録→報道」という独自の道を歩み始めます。
現実を写す限り、写真の証しであるリアリティーは、絶対的に保証されました。写真が自立してゆくためには、価値ある現実(魅力的な真実)を写す以外になかったのです。しかし、目的的に要求されるリアリティーのみに撮影の領域を委ねていたとしたなら、写真は、いまだ写真表現とは無縁の世界を漂っていたに違いありません。今日のようなさまざまな私的展開を、写真が作品として見せるためには、自発的に起こる対象への語らいが重要な意味を持っていたと言えるでしょう。この点では、皮肉にも絵画のそれと一致します。結果的に撮影者達は、真実としての写真を記録的な表現作品つまり、「写真的作品*」に転化してゆきました⦅大型カメラで物の主観的解釈に迫ったアメリカの秀才、エドワード・ウェストン[1886~1958]。/ 写真に表現としてのあらゆる可能性を示唆したハンガリー生まれの天才、モホリ・ナギ[1895~1946]など⦆。また、真実の記録としての写真にこだわり続ける者達は、いっそう主観に迫る現実を探し求めることに執着していったのです⦅日常に出現する法則的な調和という美の瞬間、自らが認める厳格なイメージをストイックなまでに追い求めたフランスの知性派、アンリ・カルティエ・ブレッソン [1908~2004]。/ 偽善に満ちた社会の深層を屈折したカメラ・アイで逆照射的に暴いてみせたユダヤの女神、ダイアン・アーバス[1923~1971]など⦆。何故なら、写真であることの証明は、たとえそれがいかなる現実であるとしても、唯一現実の記録によってなされるものと信じていたからに違いありません。
2 私的写真*
次に、写真を鑑賞する場合を取り上げ、表現性を有する写真が抱える問題について少し考えてみたいと思います。それは、写真が作品として撮られたものであったとしても、個人的に撮られる私的写真*の場合は、一般的に記録写真として「観賞」されるケースが圧倒的に多いという点です。(観賞とは物を見て、その美しさや趣などを味わうこと。鑑賞とは芸術作品などにおいて、それが表現するところをつかみとりそのよさを味わうこと。)
記録写真は、最終的に撮影者のカメラ・アイをリアルに再現してみせる世界なのですから、現実を記録(模写)したものとして「観賞」されればよいわけです。実際にフォト・ドキュメントといわれる写真は、その記録・伝達が主たる目的であり、もっとも写真的であるために内容もわかりやすく、提示される映像からして誤った見方はまずされません(美景珍景を記録した風景写真も同様)。しかし、撮影者のイマジネーションやポエトリー(詩情)を内包する私的写真*は、対象への主観的解釈を映像や題名に反映させようとしている場合が多く、基本的には絵画に近いものと言えます。にもかかわらず、これらの作品に向けられる眼差しは、ほとんどが記録写真に対するそれと同じなのです。特にカラー写真の美しいものなどは、単なる美品珍品として「観賞」されるに止まり、的外れな批評に作者を当惑させている場面も少なくありません。これらは、作品として撮られる私的写真*にとっては悲しむべき事態といってよいでしょう(特にアマチュアの作品)。もっとも、商業化した写真コンテストを中心に、選ばれる作品の大半が映像としての美しさや新奇さだけを競ったものなど、記録映像としての価値一辺倒となりやすい審査の現状などにも問題はあると思います。
私的写真*の表現性
カメラが市民権を得て久しい今日、街にはパーソナルな個人レベルの私的写真*が氾濫し、趣味としての展覧会や写真集さえも、一般的な出来事となっています。既に写真は、「記録」のためだけに必要とされるものから、「自己表現」を満たしてくれる媒体の一つとして、市民権を確立しつつあると言えます。ここであえて「確立しつつ」とするのには、写真という媒体がもつ二面性(記録性と表現性)への理解が社会的には、いまだ浸透しておらず、そのために私的写真*の「表現性」が正しく認識されにくい状況が垣間見られるからです。
例えば、複数のネガを印画紙に重ね焼きしたものなどは、明らかな「表現物」でありながら、合成写真という言葉の響きから、あたかもそれは「ゴマカシ写真」であって正当性がないかのごとくの扱いをされることが多いのではないでしょうか。また、単一色という情報量の少なさから記録性に乏しく、一記録写真でさえ作品として見てしまう白黒写真では、疑うことなく容認されてきた演出や階調の補正表現等においても、記録性の強いカラー写真では、「フィルターを使った写真」「作った写真」などとして蔑視されてしまう傾向が強いように感じられてなりません。これらは、戦後のわが国におけるカラーを主とする写真の普及とその需要背景に、写真とは、対象のありのままを写しとるもの。だからこそ、記録や伝達、広告のために有効に作用するものであり、そこに本来の利用価値が生まれてくる。といったマス・メディア的要素を優先する商業目的が大きく存在し、写真は記録であるとする考えを基調とする写真界全体の流れが、個人の主観的意識までをも対象の魅力に集約してきた結果と言えるのではないでしょうか。
カメラが大衆のものとなった現在、誠に残念なことですが、いまだわが国における写真は、非常に限られた用途、一般にプロフェッショナルな仕事とされる「目的的記録写真」としてのみその自立権を保証されているに過ぎないようです。つまりは、「私的写真*の表現性」を正しく認識し、内容を「主観的な解釈の表出」としてとらえようとする体質が、社会的には皆無に等しいというのが現状なのではないでしょうか。
一般に演出写真や合成写真と呼ばれるものは、絵画表現的な「作品」なのであり(写真的作品*)、観点は作者の主観に向けられなければなりません。尚、合成写真という用語を写真の分類語として用いるのは適切ではありません。何故なら、合成によって作られる写像は、虚構(フィクション)を写像で表出するものと同様、写真であることを主張し得なくなる場合があるからです(絵画としての写真の頁参照) 。 あくまでも制作上の一技術として「写真合成」と用いるべきでしょう。
私的写真*の記録性
では次に、「私的写真*の記録性」について考えてみたいと思います。
先ず、私的に撮られるすべての記録写真は、本質的に「撮影者の主観によって構築される意識世界を、対象に訪求しようとする写真である」とは言えないでしょうか。つまり撮影者は、対象を自己の意識を投影する被写体として捉えようとしている、ということです。であるならばこれは、対象の魅力を記録しようとする客観的な記録性とは別な記録性と捉えることができます。この「私的写真*の記録性」は、常に撮影者の感情と強く融合して構築されるものであり、対象の客観的な魅力のみで構築されるものではないでしょう。従って、私的に撮られる記録写真は、本質的に、撮影者の主観的な意識の構築(絵画的要素)と、それによって選択される客観的な被写体のリアリティー(写真的要素)との両方の要素からなる写真、といえるのではないでしょうか。
私はこの種の写真を「写真画*」と呼び作品視しています。写真画*は、対象を記録する記録写真とは異なる「私的な記録写真」として確立されるべきものではないでしょうか。また、鑑賞されるべきは、対象に注がれる撮影者の主観や意識であり、評価には、その観察力や独創性を充分に吸収できる体質が求められます。尚、一記録写真を「作品」として位置づける根拠は、写真の題名に認められる撮影者の主観的意識の反映、つまり感情移入の文芸的表出にあります。このことは、作品としての評価が題名と内容のマッチングに左右されるであろうことを示唆しています。対象を私的にとらえる記録写真の場合、題名は写真の内容と融合して作品の優劣に多大な影響をあたえる「意識世界の代弁者」となり得るという点に注意しなければなりません。
絵的写真*と写真画*の違い
さて、主観的解釈を映像に反映させた「絵的写真*」と、題名に反映させた「写真画*」との違いはどこにあるのでしょうか。
基本的には、撮影のための創作的過程を経た現実を撮影したか、一般的な現実をストレートに撮影したかによります。「絵的写真*」の場合、演出や主観への固執といった過目的な選択により、被写体は、事物の普遍的形態を離れる特殊な状態となります。それに対して「写真画*」は、事物の普遍的形態をそのまま記録するのですから明らかに客観的リアリティーが表出されることになります。
また、「写真画*」であっても撮影者の主観によって創作的過程を意図的に経る場合があります。例えば、広角レンズを使ったときに表れる遠近感の強調といったレンズ効果や、長時間露光による写真表現的な効果です。これら写像への主観的構築がなされる場合には、最終的にその内容のリアリティーが人間の一般的な知識と感覚と認識の枠から外れないものであることが大切なポイントとなります。ここで注意すべきことは、順次開拓され続ける数多くの映像の紹介により、人の意識感覚は絶えず拡張変化してゆくものであるということです。またそれによって「写真画*」がリアリティーの一部を失うとすれば、分類上その作品は「絵的写真*」に移行することになります。注2
つまり、「絵的写真*」とは、作者が主観的に演出または選択する特殊な状態や事象を、レンズがつくりだす細密描写を利用して写真的に普遍化しようと意図するものであり、「写真画*」とは、対象に対して作者が主観的に創造する価値観を、客観的リアリティーを有する被写体により、真実が語る世界として忠実に再現してゆこうとする「記録写真的な表現物」ということになります。従って写真画の場合は、被写体に向けられた撮影者の思いを、作者の主観として題名に明確に提示する必要があるのです。
尚、「絵的写真*」には、わが国の風景写真によく見られる希少価値的光景のように、実際にあった現象や瞬間的事柄の表示ということ以外には、写真で表出する必要性を「作品」としては何ら感じ得ないものがあります。注3
また、気をつけたい点に、写真の単純な模写絵*への変様があげられます。これは、「絵画としての写真」の頁でサロン・ピクチュアの変転として記述した「写真を外観上絵画的な雰囲気に見せる」というものです。印画紙自体への表面的な演出は、表現上それなりの効果をもたらすにせよ、それは写真としてのマチエールを単に変化させるだけのことであり、結局は「写真を絵画調に複製したもの」以外の何ものでもない、ということを理解する必要があるでしょう。
第4章 記録写真、その未来
1 記録写真
対象そのものへの依存性が強く、撮影者自身の感情移入(対象への主観的な意識の構築)が内容に反映されないもの、つまり、対象に向けられる撮影者の個人的な解釈がどうであれ、対象そのものが有する客観的現実内容の方が先行している場合は、記録写真となります。また、必然的に対象に向けられるのであろう私的感情を、一切反映させることなく、あくまでも客観的に撮影できるとすれば、それは純然たる「記録写真」となり得るでしょう。
例えば、朝日に輝く山々や、夕焼けの光景を適確なフレーミングで美しくとらえた写真があるとします。するとこの写真は記録写真です。容姿が整っているとされる女性を美しいと感じられるようにとらえた写真があるとします。この写真も記録写真です。元来その価値を容認されてきたもの、あるいは現時点で客観的に評価されるものを、そのように表出しただけの写真は、すべて記録写真(現実の模写)となります。戦場の惨劇を生々しくとらえた写真があるとします。するとこの写真もまた記録写真となります。何故なら、戦争は常に悲惨な現実そのものとして、普遍の客観性を強くもつものだからです。
新しい価値観に迫る
既に確立された概念、ある一定の概念を有する被写体へのアプローチは、作品志向的に対象となるものの優劣がすべてだとする対象至上主義や、狭義な作品分野別美意識*(その世界でのみ評価される一般性を有しない美意識)にもとづく形象至上主義へ陥りやすくなります。よって、より刺激的な被写体や映像を追求し、流行の対象や画面構成のみに頼ろうとする画一的な方向を模索することになりますが、この点は撮影者の資質と映像を求める側の資質の双方に問題を見出すことができます。
私的写真*の分野では、いまだ概念の確立されていない対象へのアプローチや、あるいはものの有する既成概念に刺激をあたえる新しい観点こそが求められるべきであり、撮影者はそのことに自らのカメラアイを向ける努力をなすべきです。優れた記録写真とは、あくまでも客観的見地から、事物の新しい価値観に鋭く迫る写真のことをさすのではないでしょうか。そのためには、撮影者としての冷静な対応(私情に起因する主観的表現に注意しなければならない)や観察眼の養成、写真というものへの深い理解が強く求められることとなるでしょう。そしてその積み重ねこそは、記録写真を単なる模写や美品珍品としての記録、わが国の風景写真によくみられる牧歌的・感傷的・叙情的な写真の類に終わらせることなく、芸術にまで昇華させることへとつながってゆくはずです。
2 アマチュアリズムへの期待
1980年代以降、さまざまな分野の作家達が写真を使って試みてきた表現の数々には、写真という媒体そのものが、制作のための一素材にすぎないということを、無責任に、しかし見事に実証してみせた感があります。
かつて絵画の下絵的存在にすぎなかった写真に、自立への道を切り開いた輝かしい「記録写真」の歴史は、テレビを主役とする報道形態の変転によりその役割を終えたとさえいわれています。事実、動画映像の情報量は膨大なものであり、スチール写真のそれを遙かに凌ぐものといってよいでしょう。また、近代都市化の波は、無数の情報を世界的な規模でタイムリーに社会に供給し続けることにより、価値ある現実さえも「日常」に退化させてしまったといえます。
真実の客観的な報道という写真の使命が終焉を迎えるなかで、「記録写真」は、しだいにその役割を「自己表現」に転化してゆきました。この推移は、19世紀から20世紀という激動の時代をめまぐるしく変転しながら併走してきた写真という媒体のもつ二面性と柔軟性を、まさに象徴する現象とは言えないでしょうか。
「記録と表現」という相反する二つの性格をもつ写真の動向は、「現実と理想」或いは「戦争と平和」との間に介在する人間社会の変遷に沿って、たえず緩やかに変化して行くもののようです。であるならば、人間社会の実相を最も適確に反映しているといってよい私的写真*は、まさに時代を証言してきたと言えます。そして同時に、写真というものの未来像を予見しているとも言えるはずです。アマチュアリズムによって放出される膨大な写真群は、常に写真の新しい価値観を担ってきました。映像と戯れることのできる柔軟なアマチュアリズムこそが、写真の未来をこれからも創造して行くのです。
尚、写真で何かを表現する、という世界においては、わが国の写真界で位置づけされている、プロやアマチュアという定義は無いといってよいでしょう。少なくとも、プロの写真家が、=写真作家では必ずしもないということをアマチュアの方々は認識すべきです。
第5章 写真考察
1 デジタルカメラの台頭
銀塩フィルムに変わり、CCD や CMOS といった半導体素子を記録媒体とするデジタルカメラが市場に登場して約四半世紀になります。当初、一万画素で一万円と言われた高価な光学機械は、現在、五百万画素で一万円という手頃な家電製品となりました。
写り具合をその場で瞬時に確認できるデジタルカメラの利便性がユーザーの支持を得て、現像するまで写り具合の判らないフィルムカメラに取って代わったのです。そして同時にデジタルカメラは、写真の私的活用性を飛躍的に向上させたと言ってよいでしょう。
専門店に依頼する時代から、自分の家で自在にプリントする時代へ。被写体を写す時代から、内面を表出しようとする時代へ。紙媒体の時代から、液晶ディスプレイで立体的に楽しむ時代へと、写真は確実に様変わりしてきているのです。起因となる画像のデータ化は、個人レベルでの改変と流用を広範囲で可能にし、一歩誤れば犯罪にまでつながる危険性を孕んでいることを赤裸々に露呈しています。コンピュータを使って内容を修正した画像が、悪びれることなくネット上を行き交う様は、よくも悪くもこれからの写真が記録としての真正性を主張し得ないもの、虚と実という二つの顔を持って歩かざるを得ない宿命にあることを象徴しています。しかし、一方でそれはまた新しい価値観として最大の魅力となっているのも事実なのです。
2 写真の定義(写真と作品)
「写真(photograph=光画)」とは一体何でしょうか。 日本写真学会では、写真を「光、放射線、粒子線、熱などのエネルギーを化学的あるいは物理学的手法で捉え、視覚的に識別できる画像として記録・保存し表示する手法およびその画像。」というふうにシステム的に捉えて定義をしています。一般的にはカメラで写した映像。あるいはそれを印画紙にプリントしたものということになるでしょう。カメラで撮影したもの、光によって描かれたもの、現実を写したものなど、我々が普段理解している写真への認識は、システム的には非常に的確なものであるといえます。しかし、ここであらためて提起し、確認してゆかなければならない重要な点について記述したいと思います。それは、辞書にも載っている写真の普遍的定義、「対象のありのままを写しとること。」という概念的ともとれるその抽象的な意味合いに対する論理的かつ具体的な徹底解釈です。
まず定義に従えば、写真とは「対象のありのままを写しとったもの」ということになります。つまり、仮に被写体が意図的に演出されたものであったとしても、ありのままを写したものは写真であるということです。写っている内容に嘘や偽りが隠れているとしても、その対象のありのままを写しとったものであるならば、それは紛れもなく写真であるということになるのです。そしてこのことは逆説的にとらえれば、対象のありのままを写しとっていないものは、たとえカメラで写したものだとしても、写真ではないことになるということなのです。つまり、ありのままを写しているか否かが写真であるか否かを確定することになるのです。さてそこで、「ありのまま」とは一体どういう状態をさすのでしょうか。次にそのことについて考えてみたいと思います。
ありのまま
例えば紅葉の撮影で、手前に写り込む一本のススキの穂が目障りなので、抜き取ってから撮影したとします。するとこの写真は、ススキを抜き取る前の状態と比較すれば、ありのままを写したとは言えなくなります。抜き取った後の状態と比較すれば、ありのままを写したと言えることになります。つまり、いつの時点で比較するかによって、ありのままを写したという結論に違いが生ずることになります。
たかがススキ一本くらい関係ないのではないか、どちらも「ありのままを撮影したものだ」と言われる方は多いと思います。それでは、ススキの穂一本を、見上げるほどの樹木数本に置き換えて考えてみて下さい。すると今度は、伐採前と伐採後では、明らかに内容が違ってきますから、伐採後に撮られた写真を、「ありのままを撮影したものだ」とは言い難くなることが容易に理解できると思います。しかしこれでは、作為の程度によって結論が揺らいでしまうことになり、やはり写真の定義は成り立たなくなってしまいます。辞書ではありのままを「実際にあるとおり。事実のまま。偽りのない姿。ありてい。」と定義し、継続的な次元での意味合いは定めていません。よって基準となる時点の問題や作為の程度には関係なく、被写体をそのまま撮影するのであれば写真であると結論づけてよいことになります。しかしどうでしょうか。写真には第3章でも述べたように「絵画としての写真」という、あきらかに写真とは言い難いものも存在します。あくまでも写真はその内容に現実的なリアリティー(真実味)を見て取れることが大切です。その点に着目すれば、やはりこれで良いはずはありません。さて、ありのままとは一体どのように捉えればよいのでしょうか。
私は、ありのままとは、「普遍的形態との差異が認められない状態」。つまり、客観的見地から判断して、相対的に特殊でない状態をさすのだと考えます。秋の景観として、そのススキの穂が一本あってもなくても、自然の秋の景観たる様子、普遍的形態は変わらないでしょう。見上げるほどの樹木数本だったとしても、自然の風景として客観的見地から判断したときに、景観上の違和感がなければ、普遍的形態との差異は認められない状態ということができます。しかし、仮にその場に全裸の女性がポーズをとって立っていたとしたらどうでしょうか。これでは、あきらかに不自然で感覚的な違和感を生じてしまいます。つまりこれは、ありのままを写しとったものではなく、意図的に作られた特殊な状態を撮影したものであり、普遍的形態との差異が認めらるもの。ということになります。よって写真ではないということになるのです。それでは全裸の女性がポーズをとって立っているこの写真は一体何になるのでしょうか。これは、作ったものすなわち「作品」であるということになるのです。(作品とは制作したもの。主に、芸術活動による制作物。作るとは新しい物事・状態を生みだすこと。)
肉眼との違い
レンズを用いる光学式のカメラは、対象をかなり正確に写しとることができます。しかし、対象と写真像の間には、時に違いが生ずる場合があります。そもそも人間の目が捉える対象は、あくまでも肉眼による網膜像を、脳が情報として補足処理した結果であり、そこには、錯覚や思い込みも加わることから、心を持たないレンズが光学的に処理する写真像とは、少し違って見えるとしても当然なのですが、ここで取りあげる違いとは、そのことではなく、形状の違いとして認められる明らかな違いについてです。
まず極端な広角レンズを使用すると、遠近感や物の大小が強調されたり、デフォルメされたように写ります。また、望遠レンズで至近距離撮影をすると、背景が大きくボケて写ったりすることがあります。これらは、球面状の網膜に投影される肉眼像と、受光面に平面投影される写真像との違いであったり、単純な焦点距離の違い(肉眼の焦点距離は22ミリ程度)であったりする訳ですが、これらの写真像は、肉眼が捉えている対象とは、視覚的に明らかな違いが認められます。また、シャッター速度を極端に変えて撮る長時間露光や、ハイスピード撮影で得られる写真像も、肉眼が捉えている対象とは、印象的に明らかな違いが認められます。その他にも、白黒フィルムや赤外線フィルターによって写されるモノトーンやハイコントラストな写真像や、デジタルカメラでホワイトバランスを意図的に変えて写した色調の異なる写真像なども、明らかに肉眼とは違うものです。
レンズを用いる光学式のカメラでは、像をつくり出すシステムを操ることで、対象を肉眼とはまったく違うイメージにつくり変えることがある程度可能なのです。しかし、出来上がったものを写真(ありのままを写したもの)と言えるかどうかについての議論は、一切行われて来ていません。写真像とはそういうもの。写真像を生成するカメラには、システム的な表現性が内在しており、撮影者の意思とは関係なくつくり出される映像なのだから、システム表現の一つとしてとらえ、その内容を記録性の観点から殊更に問題視する必要はない。写真とはそういうものである。と解釈されているだけではないでしょうか。
私はこれらを、写真術*によってつくられる表現映像と位置づけ、作品としています(写真術作品*)。つまり、撮影者がある意図をもってカメラのシステムを操作することで、意識的につくり出すことが出来るもの、という解釈です。カメラで写し撮った映像だから写真なのではなく、あくまでも対象のありのままを複写的に、肉眼との基本的な違いのない状態に写し撮った映像だからこそ写真と言えるのではないでしょうか。
写真作品とは
アメリカの偉大なる写真家で、日本にも多くのファンをもつアンセル・アダムス [1902~1984] は、大型のカメラを使い、ゾーンシステムと呼ばれる独自の写真技術と崇高な精神で、自然や風景を的確に撮影し、完璧なまでのプリントワーク(覆い焼きや焼き込み等)を施して、まさに作品と言うにふさわしいものを数多く残しています。しかしこれらを、俗に言う写真作品と言えるかどうか、正直なところ私は困ってしまうのです。何故なら、彼の撮影には白黒フィルムが使用されているからです。
あくまで私見ですが、既述の如く、対象のありのままを写しとるものを「写真」とするならば、写真は先ず、全ての色を再現する総天然色でなければならないはずです。そして、その内容に私的な感情を反映させるプリントワーク等の手仕事が施されることにより、写真は初めて「写真作品*(「写真」から制作されたもの)」と言えるものになるのではないでしょうか。
ストレートフォトグラフィを唱えたアルフレッド・スティーグリッツ [1864~1946] の時代と違い、アンセル・アダムスの時代には、カラー写真の存在はすでに良く知られていました。彼が当時のカラー写真の品質と利便性を、自らの目的に十分応え得るものとして認めていなかったかどうかは定かではありませんが、彼がなぜカラーを使用せず白黒で写真を撮り続けたのかという素朴な疑問に私は行き当たるのです。白黒フィルムを自らの表現目的のために「意図的に選択していた」とするなら、これは、写真術*によって意識的に制作されたモノトーンな写真術作品*であるといえます。つまり、彼の作品は、白黒フィルムを使って得た表現作品に、さらに手を加えた二次的な表現作品なのであり、ありのままを写し撮った「写真」にプリントワークを施した一次的な表現作品「写真作品*」であるとは少し言い難いのです。
カラー写真が大衆化した今日、あえて白黒で撮影することは、撮影者は、「写真」を撮ろうとしているのではなく、人の感情に多大な影響を及ぼす一方で、その制御には困難を要する色情報を、白黒フィルムに委ねることで取り除き、本質的に作品性の高いモノトーン画像を、制作のための下絵として得たいとしている、と捉えることができます。現在のデジタル技術を使えば、カラー写真からフィルム写真を超える豊かな色や諧調、思い通りのハーフトーンを有する白黒作品をレタッチ作業で獲得することは、実質的には決して難しいことではありません。彼がもし今日活躍していたなら、デジタルカメラとパソコンと画像編集ソフトを駆使して、「カラー写真」から制作する色彩的にも魅力のある正に「写真作品*」と言うに相応しいものにも挑戦することでしょう。
尚、スティーグリッツ以前の写真に関しては、それまでの絵画とは全く違う、写実の意味そのものを変えてしまうリアルな写像が当時の人々に与えた鮮烈な印象を考慮すると、たとえそれがモノトーンな白黒画像だったとしても、人々は疑うことなくそれを、ありのままを写したもの(写真)として受け入れたはずです。歴史的に「写真=白黒写真」という捉え方をすることが必要であり、また望ましいと判断します。因みにカラー写真は、 1861年にイギリスの理論物理学者ジェームス・クラーク・マクスウェル[1831~1879]によって初めて撮影されています。
第6章 段階
1 能動的流れ
「コンパクトカメラと違い、一眼レフは見たものがそのまま写るんだよ。」これは、私が写真をはじめるきっかけとなった言葉です。見たものがそのまま写る…。写真なのですから当たり前のことですが、日本画家の父のもとで育ち、絵画の写実という世界に割り切れない気持を抱いていた当時の私には、何とも魅力的な響きを持つフレーズだったのです。
勤め帰りに質屋のウインドーに飾られていた新古品の一眼レフカメラを買い、日曜日を待って近くの公園で24枚撮りのネガフィルム一本を一気に撮り終えたのは、遠い昔のことです。以来、写真というものに夢中になり、様々な形体の写真にも積極的にチャレンジしてきましたが、振り返ると、いくつかの段階を経て今日の自分があることに気づきます。
Level 1『純写真*』
写真は、対象に反応する心のままにシャッターを押すことからはじまります。キレイだ、凄い!、魅力的、…不思議、んー。心を動かす何かに出逢い、それを映像として残したいという気持ちが働いたときに、写真は生まれます。普遍的形態をストレートに能動的に撮影する写真です。
Level 2『演出的写真*・写真術作品*・写真作品*』
「あの雲がもう少しこちらに来るまで待とう/石の上の落葉(もみじ)を二、三枚増やそう」。普遍的形態との差異が認められない演出写真(演出的写真*)。カメラの操作や写真の描写特性が少し分かってくると、自分の感性に合わせた写真が撮りたくなり、それに必要な技巧の習得に夢中になります。「背景をぼかして主題を浮かび上がらせよう/超低速シャッターで波の動きを雲のように表現したい/もっと描写力のある大きなカメラで写してみたら…」(写真術作品*)。「深みのある赤い夕日になるようにプリントを焼き直そう/つぶれ気味のシャドー部を覆い焼きして…」(写真作品*)。
とにかく写真が楽しくて仕方のない時期で、コンテストやクラブ、撮影会等への参加や器材への投資、ストイックな撮影行などでテクニック向上のモチベーションを高めてゆきます。
Level 3『演出写真*・写像絵画*』
写す対象それ自体がなければ成立しえない写真というものの限界に挑むようになり、主観に沿った「もう一つの現実」を演出したり、自分の感性に合致する被写体そのもの=フィクション(想像力によって作りだされる架空の物語)を制作し、それを写すという超能動的な撮影に入って行きます。進展すると写真表現としての収束期を迎えます。
2 受動的流れ
写真力*への目覚め
写真にとって本当に大切なものは何か、という根本的な問題と正面から対峙し、あるがままを受け入れる方向へと思考が変わり始めます。その結果、あたりまえの現実を、ありのままに写しているにもかかわらず、不思議な世界の存在を意識させる写真の魅力に出逢います。客観性を有する現実描写によって新しい価値観の存在を意識させ得る、言わば「写真力*」といえる写真の本質的な力に目覚めます。その力によって対象の真の姿に迫るべく、徐々に技巧(表現のために必要な撮影技術)からは離れて行きます。
絶対写真*(Absolute Photograph*)
自発的に起こる対象への語らいを捨て去り、利・欲・偽・飾とは対極にある誠実な撮影を実践します。やがて、「すべてのものは、人知を超えて存在している」という揺るぎない事実を認識することでしょう。それらと関わりを持とうとする不可解な自分の心の中へと意識を向けることにより普遍的形態を受動的に撮影できる絶対写真*の領域に入って行きます。そして最後には、「真の自分を反映する記録写真」に到達するのです。このとき、視覚的印象を超える写真像への憧れや過目的な美へのこだわりは一切なくなります。また、コンセプトは大きく異なりますが形体は Level1 と同じものとなります。(Level 1の純写真*は能動的な自発行為。対する絶対写真*は受動的な自発行為。)
第7章 フォトコンテストの限界
1 デジタル時代への対応
「合成などのレタッチをしたものは、その旨を書き入れること」(レタッチとは写真に手を加えたり修正したりすること)。「入賞候補作品は原板を提出のこと(デジタルカメラの場合はオリジナルデータ)」。これらは、昨今のフォトコンテストにおける出品規定によく付加される注意事項の一文です。
また、このような注意書きが付されていなくても、実際には、審査の段階で何らかの画像処理がなされたものか否かということが常に吟味され問題となります。これは、デジタル画像に対する記録としての真正性を、いままで通りに扱いたいとする立場から、画像に加えられる修整を好ましくないとする考えのあらわれと判断することができます(特にカラー写真の場合)。
虚と実の境界線
しかし、デジタルが主流となった今日、画像に修整が加えられるのは、もはや当たり前のことで、何も修整していないと言い張る事にこそ無理があるといえます。なぜなら、デジタルカメラの画像は、色や諧調などを画像生成時に自在に調整できるRAW現像は言うに及ばず、標準現像に相当するJPEG画像でさえも、撮像素子(CCDなど) の入出力特性の欠点を補い、一定の明暗比を確保するダイナミックレンジ合成という技術や、好感色への色の変換、不具合なノイズデータの置換処理技術など、様々な修整が行われているものだからです。また、従来の銀塩フィルムにしても、感光剤と発色剤の光化学反応によって、一定率な色と諧調像を生成するわけですから、肉眼とは様々な点で修整に匹敵する違いを生ずるものと言えます。そもそも、撮影レンズの焦点距離や平面投影される写真像は、人の目の焦点距離や球形を成す網膜像と一致するわけではないので、幾何光学的にみれば全ての写真像は、既成の修整が加えられているものと言い張ることもできます。
フィルム写真の時代には、システム的に修整には出来る事と出来ない事がありました。合成によって画像を作る場合でも、内容はその枠内で行われるものであり、逸脱すれば、写真像としての信憑性や真正性を満たすことのできない「嘘写真」になることは明らかでした。しかし、デジタル化された今日、パソコンと専用ソフトを使えば、その枠を飛び越えて修整を加えたとしても、誰にも気づかれない画像をつくることは決して難しくはありません。例えば、紅葉の色を部分的に変えたり、木々の形態を微妙に整えたり、不要な雲を消したり、湖面に浮かぶボートの位置や数を加減したり、人物の肌の調子や形相をまるで別人と見紛うように作り替えたりと、何でもできると言っても過言ではありません。目を見張るような紅葉の絶景も、ドラマチックな夕日の情景も、まさに自然の驚異を感じさせるような信じ難い光景も、いまは大衆に認知される偽の実画像として、容易に作り出すことが可能です。つまり、虚像と実像の境目は、もはや無いに等しいのです。
揺らぐ大前提
白黒写真の時代、もしくは白黒写真が主流だった時代の写真には、「真実あるいは現実を写し撮ったもの」とする基本的な大前提がシステム的な理由と、ある意味で脆弱な記録性とによって保証されていました。写真コンテストの審査は、その大前提に裏打ちされるかたちで、表現された内容について優劣を判定すれば良かったと言えます。つまり、記録写真としての真正性や、演出に対する是非については、これをことさら問わず、作品としてのコンセプトや、表現の巧拙のみを審査すればよかったのです。
しかし、カラー写真が進出してくると、記録としての真正性や、内容の信憑性を問わずにはいられなくなります。本質的に記録性に優れたカラー写真では、写真術*による対象像の改変のみならず、様々な演出やプリントワーク、ときにはフィルムの発色特性までもが、ともすれば肉眼との感覚的な違和感を生み出し、内容のリアリティーに疑念をいだかせてしまう結果につながっていったからです。
記録と表現の迫間(はざま)で、コンテストの審査結果をめぐり、疑心に満ちた冷やかな議論がはじまります。そしてついには、虚と実の境目のないデジタル画像の時代が到来し、写真はもはや、ありのままを写すとは限らない、単なる画像となってしまった感があります。大前提はいよいよその根底から揺らぎ始めたのです。
記録写真の行方
デジタル画像における記録写真としての存立は、いまや風前の灯火といった状態にあると言えるでしょう。このままいけば写真は、フィルムにせよデジタルにせよ、いずれ絵画との基本的な違いはないものとなります。結果的に写真コンテストは、カメラ及び、スキャナー、パソコン、プリンターといった一連の機器によってシステム的に制作される「画像作品」としてのコンセプトと、表現の巧拙とで優劣を競い合うだけのものとなるでしょう。このことは、優れた記録写真や本来の写真というものがコンテストでは評価を受けにくい時代が訪れることを意味します。
ストレート・フォトグラフィの第一の提唱者として、近代写真の父と呼ばれるアルフレッド・スティーグリッツが、カメラという器械のもつ現実描写力を掲げ、絵画との領域を異にする独自の道を開拓して行った輝かしい記録写真の歴史は、一体何処へ向かおうとしているのでしょうか。
新たな基準の設定
一家電製品と言ってよいデジタルカメラが写真機の主流となった今日、巷では、世の老若男女により、膨大な数のデジタル写真が、精力的に生み出されています。私は最近、コンテストの定番となっている構図や、お決まりの内容から外れる一見素人まがいの写真群の中に、対象となったモノの新しい価値観を発見できる優れた「記録写真」が相当数埋もれていることに注目しています。また、写真表現や写真作品と呼ばれるものとは掛け離れていますが、アマチュアリズムの存在を強く感じさせる「本来の写真」として魅力的なものも少なくありません。驚くのは、それらを撮影する人々の大半が、カメラを始めて間もないビギナーや、デジタルカメラ世代の若者達だということです。このことは、デジタルカメラが「記録写真」と言うものにとって、画期的なアイテムになり得ることを雄弁に物語っています。事実、極端な白とびや黒つぶれがなく、割と肉眼に近い画像を、誰もが手軽に撮り得るデジタルカメラは、技巧(過目的な撮影技術)の習得を必要とする表現域にあまり踏み込むことなく、心の反応のままに撮影する、作意の無い写真、表現に走らない写真を生み出すことができるのです(特に肉眼に近い焦点距離像と、人間の視力を超えない細密写像を生成することのできる撮像素子の小さなコンパクトタイプのもの) 。
このような整った社会状況にありながら、将来的にその受け皿が無くなるようなことは、決してあってはなりません。未来に向けて、写真が「本来の写真」であり続けるためにも、これからの写真コンテストには、写真が写真という姿であり続けられる確かなジャンルと、それを裏打ちする明快な基準を、新たに設定する必要があると私は確信します。
解決すべき矛盾
私は、記録と表現という相反する性格を有する写真のコンテストには、記録写真としての真正性と、表現作品としての創造性の相対関係から生まれる矛盾、解決しなければならない大きな問題が内在していると思っています。
例えば、白黒写真とカラー写真とでは、演出はまったく別の扱いとなります。
表現性の強い白黒写真の場合、対象に主観的にかかわろうとする意図的演出や写真術*、プリントワーク等のすべては、「制作者の意思を具現化するもの」として容認されるのに対して、記録性に優れたカラー写真の場合は、「遣らせ(やらせ)、嘘、フィルターを使ったもの、作った写真」などと呼ばれ、蔑視されてしまいます。
また、写真術*の一つである、輝度差とフィルムのラチチュードを利用することで背景を暗くおとし、対象を浮かび上がらせる表現などは、写真の描写特性を知ることで、経験則的な予測が可能となる、作意性の強い演出行為であり、肉眼との明らかな違いを生み出しますが、写真術*として行われる場合は、記録としての真正性を問われることは一切ありません。しかし、画像編集ソフトによるレタッチで行われる場合は、どのような場合であっても原板やオリジナルデータの提出を求められるなど、原則的に記録としての真正性を問われる事態に発展してしまいます。
これらはいずれも、写真が有する二面性(記録性と表現性)を、どのように踏まえて審査にあたればよいのかを、明確に謳っていないその審査基準が原因で起こる見解の相違と対応の矛盾であり、アマチュア写真家を対象としている写真コンテストでは、その審査結果に対する疑念の噴出が水面下では常となりつつあります。一刻も早く解決しなければならない根本的な問題であると私は考えます。
2 分類・提案
写真はその形態から、「白黒とカラー」あるいは「人物と風景」というふうに分類されることはありますが、本質的に様々なコンセプトに基づく創作が可能な媒体であり、その誕生以来、新たな価値観を求めて様々な工夫がなされ、様々な種類の写真が創り出されてきたと言えます。そしてそれは、現在もなお続けられています。さらに、デジタル化されたことで、その領域はいままでの表現における範囲を遥かに凌駕するものにまで発展してきているといえます。
私はここで、これまで述べてきた様々な写真を、その記録性と表現性という相反する二つの性格を基軸にして、新しい観点で分類をしてみたいと思います。同時に私は、コンテストを視野に、写真というジャンルを、「写真部門」と「作品部門」に分けることを提案します。写真部門は、本来の記録性に重点を置き、事物に対する新しい価値観の存在を意識させる写真力*の度合いを審査のための基準とします。また作品部門は、写真としての記録性を離れ、その表現性に重点を置き、作品としてのコンセプトや独創性、美に対する姿勢を、題名も含めて審査の基準とします。分類上の絶対写真*と純写真*、演出的写真*が写真部門の対象となり、写真術作品*、写真作品*、演出写真*、写像絵画*は作品部門の対象となります。
尚、写真画*と絵的写真*は、論理展開上いくつかに跨がるため別扱いとしました。
(なお、文中の*印を付した語は、筆者が論理展開上使用しているものであり、その解釈と併せて一般に使用されているものではありません。)
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